「3年間、あらゆる資料を揃えて提案し続けても、まったく動かなかった情報システム刷新の企画がありました。それが、感染症の流行で全社的に在宅勤務が必須になった途端、わずか2週間で承認され、実行に移されたのです」
これは、ある中堅製造業の部長が実際に語ってくれた話です。あなたの会社でも、似たような経験はなかったでしょうか。
普段なら「前例がない」「費用対効果が分からない」「関係部署との調整が…」といった分厚い壁に阻まれていた計画が、危機的な状況になった途端、まるで嘘のようにスムーズに進んでいく。
なぜ、平時にはあれほど強固だった「現状維持」の壁が、いざという時には崩れ去るのでしょうか。そして、さらに重要な問いは、多くのリーダーがこのまたとない好機を活かせず、日々の混乱に対応するだけで終わってしまうのはなぜか、ということです。
この記事では、長年多くの企業の現場に寄り添ってきた私たち伎冶総研が、この問いに対する一つの答えを提示します。平時に有効な「正攻法」を一度脇に置き、混乱と不確実性を逆手にとって会社を飛躍させるための、新しい思考の枠組み。
それが『カタパルト式変革モデル』です。机上の空論ではありません。現場で使える、泥臭い知恵です。
平時の「優等生」が陥る罠:なぜ堅実な変革は失敗するのか
まず、私たちが無意識に「正しい」と信じ込んでいる変革の進め方が、なぜ今の時代に機能しづらいのか、その現実を直視するところから始めましょう。
多くの企業で「常識」とされているのは、いわば「積上(つみあげ)式変革」と呼べる進め方です。
- まず、小規模な部署で試験的に導入し、小さな成功事例を作る。
- その成功事例のデータを元に、関係部署を一つひとつ説得して回る。
- 現場から少しずつ賛同者を集め、適用範囲を徐々に広げていく。
市場環境が安定し、数年先まで見通せた時代であれば、これは非常に有効な方法でした。リスクを最小限に抑えながら、着実に組織を変えていく「王道」だったと言えるでしょう。
しかし、市場の急変、海外情勢の緊迫、破壊的な新技術の登場といった予測不能な「混乱期」において、この堅実なやり方は致命的な弱点をさらけ出します。
- 遅すぎる: 試験導入の結果を待ち、延々と調整会議を重ねている間に、市場のルール自体が根底から変わってしまいます。混乱期に一時的に開く「変革の好機」の窓は、数週間から数ヶ月で閉じてしまうことがほとんど。悠長な合意形成はその速度についていけません。
- 小さすぎる: 会社全体が「このままでは危ない」という状況で、「まずは一つの課で小さな実証実験を…」という提案は、経営者の目にはどう映るでしょうか。「悠長だ」「問題の大きさが分かっていない」と思われても仕方ありません。危機が求めているのは、絆創膏(ばんそうこう)のような応急処置ではなく、会社の未来を左右するような、抜本的な一手なのです。
その結果、善意と常識に基づいた「積上式」の提案は、「今はそれどころではない」という一言で片付けられてしまう。あるいは、ようやく試験導入が終わる頃には、社内の危機感はすっかり薄れ、変革への熱意も失われている。そして組織は、再び元の硬直した日常へと戻っていくのです。
発想の転換:危機は「障害」ではなく「追い風」である
著名な経営学者ピーター・ドラッカーは、かつてこう指摘しました。「混乱期における最大の危険は、混乱そのものではなく、昨日の論理で行動することだ」
まさに「積上式変革」という“昨日の論理”に固執することの危うさを言い当てています。混乱期にまず求められるのは、発想の根本的な転換です。
すなわち、危機を「乗り越えるべき障害」としてだけ見るのではなく、「利用すべき追い風」として捉え直すことです。
危機的な状況は、もちろん会社に多くの困難をもたらします。しかし、その一方で、変革にとって非常に都合の良い「副作用」も生み出すのです。
- 「抵抗勢力」が静かになる: 平時であれば既存のやり方に固執し、変化に反対していた人々も、危機の前では「とにかく何とかしなければ」と、変化を受け入れざるを得なくなります。
- 意思決定が驚くほど速くなる: 平時なら数ヶ月かかる稟議(りんぎ)や承認プロセスが、緊急対策として経営トップの一声で即決されるようになります。
- 予算が動きやすくなる: 「聖域」とされていた既存事業の予算が凍結される一方で、危機対応のための特別予算が大胆に組まれることがあります。
これらはすべて、変革を阻んでいた組織の「しがらみ」や「縄張り意識」といったものが、外部からの強大な圧力によって一時的に取り払われた状態です。この莫大なエネルギーを利用しない手はありません。
問題は、そのエネルギーを、いかにして自分たちが起こしたい変革の方向へと導くかです。そのための設計図こそが、『カタパルト式変革モデル』なのです。
核心解説:停滞した計画を一気に動かす『カタパルト式変革モデル』
カタパルト(射出機)という装置をご存知でしょうか。人の力では到底飛ばせないような重い石などを、蓄えた張力(ちょうりょく)を一気に解放することで、遠方へと撃ち出す仕組みです。
このメカニズムは、混乱期における変革の力学と非常によく似ています。『カタパルト式変革モデル』は、以下の3つの要素で成り立っています。
第一の要素「弾 (たま)」:塩漬けにされた、”いつでも着手できる”計画
カタパルトで撃ち出す「弾」は、その場で慌てて作った泥団子では役に立ちません。入念に設計され、磨き上げられたものであるべきです。
会社における「弾」とは、平時から周到に準備されていながらも、様々な理由で“塩漬け”にされてきた変革案のことです。
重要なのは、それが単なる思いつきのアイデアではなく、「いつでも着手できる」具体的な計画になっていることです。
- 実行までの具体的な手順は描けているか?
- 導入によって、どれくらいの効果が見込めるか試算してあるか?
- 必要な技術や人材に、ある程度の目星はついているか?
混乱が起きてからゼロから解決策を考えていては、到底間に合いません。優れた経営者やリーダーは、平時から常に複数の「弾」を準備し、いつでも取り出せるように引き出しの中に温めているのです。
第二の要素「張力 (ちょうりょく)」:現状維持を壊す、外部からの圧力
「張力」とは、組織の「このままでいいや」という空気に亀裂を入れる、外部からの強大な圧力です。具体的には、市場環境の激変、競合の画期的な新サービス、大規模な法改正、そして社会全体を揺るがすような危機などがこれにあたります。
この「張力」が高まると、組織内では「このままでは本当にまずい」という危機感が共有され、変化に対する心理的な抵抗が劇的に下がります。これが、変革の「好機の窓」が開いた瞬間です。
リーダーの役割は、常に外部の環境にアンテナを張り、この「張力」の発生と高まりを誰よりも早く察知することにあります。
第三の要素「射手 (いて)」:好機を捉え、物語を再構築する決断力
準備万端の「弾」と、高まりきった「張力」。この二つを結びつけ、変革のカタパルトを発射する。それが「射手」、すなわちリーダーの役割です。
射手には、二つの重要な能力が求められます。
一つは、「物語の再構築」の技術です。これは、準備してきた「弾」(=本当にやりたかった変革案)を、目の前で起きている「危機」に対する唯一かつ最適な解決策であるかのように、意味づけを転換して提示する能力です。
例えば、ある老舗の食品工場が、設備の老朽化で火災を起こしてしまったとします。その工場の経営者は、単なる修復工事として資金集めに走るのではなく、この危機を「食の安全という社会の要請に応え、未来の消費者にも愛される工場へと生まれ変わる一大事業」として再定義しました。そして、以前から温めていたものの、コストを理由に反対されていた「アレルギー対応の専用製造ライン新設」という「弾」を、この復興計画の核に据えたのです。その結果、彼は単なる復旧費用を大きく超える融資と支持を取り付け、会社を一段上のステージへと引き上げました。
もう一つは、「ためらわず、一気に仕掛ける」決断力です。「張力」によって好機の窓が開いている時間は限られています。このタイミングで「まずは試験的に…」などと小さな一歩にこだわっていては、せっかくのエネルギーを無駄にしてしまいます。カタパルトが最大の張力を利用して一気に弾を撃ち出すように、リーダーは躊躇なく、大胆かつ迅速に計画を最大限の規模で実行する決断を下さなければなりません。
今日からできる思考訓練:あなたの会社の「変革のカタパルト」を準備する3つの問い
この『カタパルト式変革モデル』は、一部の天才的な経営者だけのものではありません。以下の3つの問いに答えることで、誰でも自身の会社の「カタパルト」を準備するための頭の体操を始めることができます。
- 問い1:「弾」の棚卸し あなたの部署や会社で、「正論だが、抵抗する人や予算の壁で進んでいない」「本当はやるべきだが、塩漬けになっている」計画を3つ、具体的に書き出してみてください。それらが、どれだけ「いつでも着手できる」状態に近いか、確認してみましょう。
- 問い2:「張力」の観測 今、あなたの業界や社会で起きている、あるいは今後3〜5年で起こりうる「大きな変化」や「避けられない流れ」の兆候を5つ挙げてください。それらは、あなたの会社の現状維持の空気を揺るがす「張力」になり得るでしょうか?
- 問い3:シミュレーション もし明日、問い2で挙げた「張力」の一つが現実の危機として発生したら、問い1で棚卸しした「弾」を、どのような言葉やストーリーで「この危機を乗り越えるための唯一の解決策」として提案しますか?ぜひ具体的に組み立ててみてください。
まとめ:混乱の時代を乗りこなす、新しいリーダーシップへ
この記事では、先行き不透明な時代において変革を成功に導くための新しい思考法、『カタパルト式変革モデル』をご紹介しました。
丁寧な合意形成を重んじる、平時の「積上式変革」は、混乱期には残念ながら機能しません。これからのリーダーに求められるのは、安定を維持する管理能力だけではないのです。
危機という外部からの「張力」を、自社が飛躍するための推進力へと変換する、しなやかで力強いリーダーシップが求められます。
来るべき混乱は、もはや予測不能な例外ではありません。私たちの事業環境における「新たな常態」です。平時から自社の「弾」を磨き、常に外部環境の「張力」を観測し続けること。
それこそが、未来の危機を、競合を置き去りにするほどの飛躍のチャンスに変える、唯一の方法論なのです。